数日前の勤務からの帰路で、急に止まった車から「godzilla先生〜!」と黄色い声をかけられました。
誰かと思ったら、以前のパート勤務の時に職場が一緒だった女性でした。
「何の用事かなと?」と立ち止まると、「私の古くからの親友が※※の仕事を始めて、専門的な仕事ができる人を探しています。godzillaさんのことが一番に頭に浮かんだのでメールしようかと思っていました。だから声をかけました。でもこうして出会えてよかった。」とのこと。

パート勤務とはいえ、現在も有職なのでいったんは辞退。
でも、「月に1回でもいいので、何とか助けてあげてくださいませんか?」と懇願されました。
そこで、仕事が休みのこの日 その仕事の話を聴きに行ってきました。
話を聴き終えたあと、せっかくの休みなので京都駅周辺を散策。
暑かったけれど快晴の一日で、爽やかな風も吹き、最高の気分でウォークができました。


本日のウオーキング歩数15,866歩消費カロリー2,530kcal(うち活動消費カロリー845.7kcal)、燃焼脂肪量30.0g。


2017年6月16日(金)



まずは、寶樹寺へ。
ここは牛若丸のお母さんである常盤御前ゆかりの「雪除けの松」の残株があります。



説明。
身分は低かったようですが絶世の美女であった常盤御前。
源氏と平家に運命を翻弄され続けた常盤御前が奈良に逃れる際、道中途中で急に降り出した雪を避けるためここ寶樹寺の松の老木の下でしばしの時を過ごしました。
その時の彼女の胸中は、いったいどんなものだったのでしょうか。



境内の松の木。
その時の松ではないのですが、常盤御前が過ごした時の雰囲気は感じられてくる気がするから あら不思議。



JR京都駅に近づき、高架をくぐります。



琵琶湖疏水の流れを眼下に見ながら、特急列車ウォッチ。



琵琶湖疏水と鴨川を渡るJRの鉄橋。
かなりの錆びつき具合です。



近づいて見ると、錆のひどさがとてもよく分かります。



かなり内部まで錆が回っている様子。
ここまで錆が回ると、強度に問題ないはずがありません。
おそらく日本中にこのような場所が無数にあることでしょう。



付近の枕木のほぼ全ての断面に、鬼瓦のような模様がついているように見えました。
「国鉄マンとしての最後の誇りを、人知れずに形として残した職員がいたのか!?」と思い写しましたが、どうやらそうではなさそう。
木製枕木の断面の劣化を抑えるための、防腐処理の跡のようでした。



通路部分からずいぶん奥にあり、肉眼では文字がほとん読み取れない場所にプレートがありました。
ズームで写し帰宅してから確認すると、もっとも最近の塗装作業が行われたのは1990年2月だということが分かりました。
逆に言えば、27年以上も塗装工事が行われていないということです。
乗客の命を預かる企業として、少なくとも計画的に塗装などのメンテナンス作業が行われるべき。
たとえ管理すべき場所が膨大であっても。
1990年と言えば、国鉄が民営化されJRが発足した3年後。
国労をはじめとする総評系労組を完全に無視してJR発足を強引に推し進めた当局者が、「国鉄時代と違い、JR発足によってこのように安全性は高まるんだ。」など何らかのアピール意図で行った塗装作業なのでしょうか?
いずれにしても、鉄橋の劣化は明らか。
経費を減らそうと思えば、早い段階でのメンテナンスが欠かせないはず。
鉄骨の内部まで錆が回れば もう塗装では対応できず、鉄橋全体の取り換えになる可能性が大。



鉄橋の間を縫うような感じがしてくる風景を眺めながらテクテク。



左側には琵琶湖疏水。
琵琶湖を水源とする第一と第二の二つの琵琶湖疏水は、蹴上で合流。
その後、数多い疏水分線に枝分かれしますが、メインの流れは岡崎公園から鴨川右岸をこうして流れ、最終的に伏見に至り宇治川に流れ込みます。
それは、蹴上と同じように、伏見にもかつてはインクラインがあったが故なのです。
琵琶湖疏水の本流は鴨川に流れ込んでいると思っている人もいますが、そうではないのです。



独特の形状の、疏水に架かる橋。
疏水の橋は、例外なく疏水の岸よりもこうして高くなっています。
それは、流れに逆らって上流(琵琶湖側)に舟を戻す時に、作業員がロープで舟を引っ張っていたからです。
橋があれば作業員はその下を通ることになりますが、岸の高さに橋が架かっていると、ロープを持った作業員は橋の下を通れません。
そのため、ロープを持って舟を引っ張っている作業員が橋の下を通れるよう、橋をかさ上げして岸辺が通れるようにしたのです。



橋の下のこの狭い部分を、ロープを持っては舟を引く作業員が通ったのです。



現存するものとしては極めて貴重な、旧東海道線の橋脚。



こんな感じで、何とか破壊を免れて残っています。
一見すると鉄橋を支えているように見えますが、よくよく見ると鉄橋との間には空間が。
南側には、かろうじて上部だけが見えているもう一つの遺構が、あります。



まさに「かろうじて」といった残り方。



旧・東海道線の遺構ウオッチを終え、Uターン。
塩小路橋を渡り、高瀬川へ。



櫻田儀兵衛氏の碑。



近くには石碑が。



柳原銀行資料館というのがありました。



柳原銀行資料館。
柳原銀行は、被差別部落の住民によって設立された日本で唯一の銀行だそうです。
当時、差別のために資金を得られなかった町内の皮革業者等に融資を行い、産業の育成・振興に大きく貢献したほか、その利子を地元の小学校の運営資金や道路建設資金に充てるなど、自力で差別を撤廃していく模範とされました。



柳原銀行の説明。



資料館内部へ。
受付の方に尋ねると、写真撮影は個人が特定できるようなものを写さない限りは自由だということでした。
資料館は、同和問題をはじめとする様々な人権課題への正しい理解と人権意識の普及・高揚を図る啓発施設として多くの皆様に親しまれているそうです。



資料館の見学を終え、外へ。
建物の近くに、銭座場跡の石碑が。
銭座場とは貨幣の鋳造所のことです。
1698年に、七条通と高瀬川が交差する現在の崇仁地区に銭座の設置が許可され、寛永通宝の鋳造が始まりました。
寛永通宝と言えば、世間にあまり知られていない京都大仏を溶かして作られたものも存在します。
寛永通宝は全部で35種類ありますが、そのうち裏に「文」の文字があるものが京都大仏を溶かして作られた寛永通宝なのです。
経緯としては以下に簡単に記します。
豊臣家が滅んだあとにも残っていた3代目の京都大仏は、1662年にまたもや地震で壊れてしまいます。
徳川幕府は、この壊れた3代目京都大仏を溶かして寛永通宝を鋳造したのです。
それはいいとして、そろそろ帰路に・・・。










1200年もの古い歴史がある、京都。
京都駅周辺を少し歩くだけで、これだけ多くの歴史に触れることができるのです。
それってすごいことだと思います。
そして、観光ガイドに載っていない京都の魅力もこれまた素晴らしいですね。





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