久々に中距離ウォークを行いました。
パート勤務の職場の運転手さんが「ぜひ案内して欲しい」とのことだったので、蹴上〜浜大津までを歩きました。
「天気がよく、やや寒い」。
そんな気候でしたので快適に歩けました。

本日のウオーキング歩数、37,007歩。(うちエクササイズウオーク29,894歩)、消費カロリー1,297kcal、燃焼脂肪量78.2g。

2013年5月2日(木)




蹴上のインクライン疎水公園に今も残る義経大日如来(通称=義経地蔵)。
その昔。
義経が奥州に向かうため吉次と共にこの辺りに差しかかった時、坂の上から馬に乗った平家の武士9人が駆け下って来ました。
武士達の乗った馬が水たまりの泥水を跳ね上げると義経たちにかかってしまいます。
そのことを謝罪するよう迫っても、無礼をわびず逆に平家の威光をバックに居丈高な態度をとる平家の武士達の態度に牛若丸は激怒。
吉次の止めるのも聞かず牛若丸は、平家の武士9人全員を斬り殺してしまいます。
しばらくして冷静になった義経は、自分の行動を反省し武者達が哀れに思えてきました.
そこで義経は、街道沿いに9体の地蔵を建てて供養しました。
この地蔵はそのうちの一体と伝えられているもので、他の8体はどこに行ってしまったものか所在が分かりません。
蹴上という地名はその事件があったのでついたともされます。
現に、山科の薬科大学構内には今も「義経の腰掛石」が現存し、また京都薬科大学のグランドからはその時に義経が刀の血のりを洗ったとされる「血洗い池」の姿を眺めることもできるなど義経とこの辺りは非常にかかわりがある土地なのです。
蛇足ですが、京都薬科大学付近にはその事件とのからみで「血洗い町」という地名があり不動屋さん泣かせとなっています。
血洗い町の不動産を売却する際、不動産屋さんは、「血洗い町という地名は歴史に由来するところです」という説明をつけて販売活動をおこなっているとか。
蛇足Uですが、義経地蔵では毎年お盆に、義経地蔵前にテントを張って近隣住民にが地蔵盆を行っています。



インクライン(傾斜鉄道)をかつて行き来した台車と舟のレプリカ。



九条山浄水場ポンプ室。
第二疏水の建設に伴い、京都御所へ送水するための「御所水道ポンプ室」として1912年に完成。
大正天皇が疏水を舟で下って視察する計画があったため、疏水に面した側に立派な玄関が設置され、更に豪華な装飾が施された立派な建物となりました。



日向(ひむかい)大神宮へ。



日向大神宮は応仁の乱で消失しましたが、その後再建されました。
再建される時に伊勢神宮に準じてと思われますが、内宮外宮が造られた模様。
そのことから「京のお伊勢さん」とも呼ばれていました。
外宮に到着。



橋の名前は不明ですが、あるいは宇治橋なのかもしれません。



内宮へ。



内宮横にある影向岩(ようごういわ)。



天岩戸に到着。



いざ天岩戸へ。
天岩戸をくぐると心身の穢れが払い清められるとされています。
真っ暗に見えますが短い穴なので照明は不要。



天岩戸内部。
内部はL字型に掘られています。



L字型洞内の角の部分に祀られた戸隠神社。



天岩戸からきつい傾斜の山道を上り、そして急な下りを経て琵琶湖疏水へ到着。
第三トンネル入口を望む。
この第三トンネルの長さは850メートルで、トンネルの向こう側は蹴上のインクライン疎水公園です。 



「日本最古の鉄筋コンクリート橋」の石碑が。
そう。
日本最古の鉄筋コンクリート橋は、ここ琵琶湖疏水に架かっている人道橋なのです。
当時、橋と言えば木製だったので大変注目されましたが、そんなことなどなかったかのように日本最初の鉄筋コンクリート橋の付近はひっそりと静まり返っています。



日本最古の鉄筋コンクリート橋。
老朽化していて補強されていますが、現役の橋として今でも活躍しています。



「本邦最初鐵筋混擬土橋」と刻まれた碑。
読み方は「ほんぽうさいしょてっきんこんくりとばし」なんでしょうね。



歩を進めます。
いったん住宅街に入り、そして再び疎水沿いへ。
第二トンネルの出口が見えます。



むせ返るような新緑を眺めながらの最高のウォークになりました。



本圀寺に寄ることに。
疎水に架かる赤い橋を渡ります。
金ぴかの擬宝珠がなんとも言えない雰囲気を醸し出しています。



加藤清正寄進と伝わる山門「赤門」をくぐります。



境内のカエデが見事に紅葉していました。
もう秋ですね・・・・。
じゃなくって。
種類によっては、新緑が赤いカエデがあるようです。
ここ本圀寺境内だけでなく、京都岡崎の夷川疎水発電所の水が伏見に向かって流れる疎水流路の、京都駅付近でもカエデの赤い新緑を見かけたことがあります。



黄金に彩られた仁王像。



黄金の鐘。
この大鐘は、今からおよそ400年ほど前に豊臣秀吉の姉から寄進されたものだとか。
高さ2.4m、直径1.5mあります。



鐘の下のお堂「鐘桜堂」です。
内部には「くみょうさま」が祀られています。
くみょうさまは癌などの難病に霊験があるとか。



風光明媚な場所にある綺麗なお寺なので、以前ここに母を案内して来たことを思い出しました。
九頭龍銭洗弁財天。
以前、この鳥居は金色だったように記憶していますが、なぜか赤くなっていました。



母に請われて、ここで写真を写したことを思い出します。
その母は現在入院中。
その時写真を写した九頭龍銭洗弁財天で、母の病の快癒を心に念じます。



日蓮上人像。
本圀寺は、京都に二つある日蓮宗大本山のうちのひとつ。



金色の灯篭。



本圀寺をあとにして再び疎水沿いへ。
風光明媚な第一疎水付近は、敗戦後に駐留した米占領軍の兵士が好んで居を構えた場所。
この辺りは、それほど風光明媚なのです。



安朱橋付近の地蔵堂の母子地蔵。
存在を知らないとまず間違いなく、見ることはなく通り過ぎるはず。
雄松(近江舞子)の石を使って彫られた母子地蔵尊。
疏水転落による子どもの犠牲を憂う近所の人達二十余名が話し合い建立したもの。
今も子ども達を見守ってくださっています。
毎年夏になると、安朱北部町内会の子どもたちがここで地蔵盆をします。
赤いよだれかけは地元の子ども会が奉納し、掃除や管理は地蔵堂の隣に住む住民が続けています。



地蔵堂内にある、母子地蔵の説明。
この善兵衛さんたちの思いが、今も町内で引き継がれているなんて何ともかんとも素晴らしい限り。



安朱橋付近の救命具。
転落事故が頻発した第一疏水沿いには、今では全線に安全柵が取り付けられています。
安全柵の設置によって安全性は格段に向上しましたが、それでも疏水そのものの危険性が軽減したわけではありません。
そのため、今でもこうして緊急事態への備えが行われています。



安朱橋から一度疎水から離れます。
山科聖天に到着。



たたら遺跡を目指します。
素晴らしいカエデの新緑。



春秋山荘前へ。
春秋山荘は、100年以上経った民家を滋賀県から移築したもの。
映画の撮影に使われたこともあるほど価値ある建物ですが、蕎麦どころで誰でも気楽に利用できます。
私も、かつて妻と共にここに食事に来たことがあります。



春秋山荘近くには「たたら遺跡」が。
たたら遺跡とは「たたら場」のことで、それは古代の製鉄所のこと。
宮崎アニメの「もののけ姫」でもアニメソングの歌詞に「たたら女」などの言葉がありましたね。



ここが「たたら跡」だということを示す、古代製鉄法で出た残さ。
溶けた鉄が混じる石はずしりとした重みがあります。
ただ、以前はかなり多くの製鉄残さが転がっていて探す必要などなかったのですが、かなり残さが減っていました。
次第にたたら場の製鉄残さのことが知られるようになり、あるいは減ってきているのかもしれません。



春秋山荘をあとに。



疎水へ戻る途中で、毘沙門堂へ寄ることに。



急な階段を上がって、毘沙門堂の説明を眺めます。



毘沙門堂境内に咲く藤の花。



とってもきれい!



さて、再び急階段へ。
そろそろ疎水へ戻らないと。



新諸羽舟溜まり。
このトンネルは元々の第一疎水のトンネルではなく、国鉄湖西線の拡張工事に伴って昭和45年に琵琶湖疏水の流路を変更する際に造られた新しいトンネルなのです。
奥に、四宮舟溜まり側の出口の明かりが見えています。



旧流路は今では遊歩道になっています。
その遊歩道を通って四宮舟溜まりに到着。
諸羽トンネル東口のこの辺りに、第二疏水建設の際に試験的に造られたトンネル用の鉄筋コンクリート上部のアーチが残っています。
それをこの日、同行した職場の運転手さんに見てもらいたかったのですが、何とも残念なことに見落としてしまいました。



新諸羽トンネルの内部をズーム。
トンネルの壁にロープが見えますが、あれはほぼ間違いなくトンネルを舟で通って琵琶湖側に向かう時に使うもの。
と言うのは。
第一疎水で蹴上方向に向かう舟は下流に向かうので、水の流れで自然に進みます。
でも逆に琵琶湖側へは上流に向かうことになるので、疎水を使った水運が盛んだった時には舟につけたロープを両岸を歩く作業員が引くという方法で舟を琵琶湖まで戻していました。
トンネル内では作業員が歩くスペースがなく「岸を歩く作業員がロープを引く」という方法を取れないので、舟に乗っている人がトンネル内部に取り付けてあるこのロープを引っ張って流れに逆らいながら上流へ舟を進めたので。
新諸羽トンネルができたのはもう疎水が水運で使われなくなってずいぶん時間が経ってからなのですが、実は今でもこの琵琶湖疏水では時おり舟が蹴上と琵琶湖の間を通ることがあり、その時に使われるためのものだと思われます。
私もぜひとも琵琶湖疏水を舟で通ってみたいと思い調べたのですが、どうやら大学関係者の人が研究などで年に数回舟で通るだけのようなので、私の「琵琶湖疏水を舟で通りたい」という願いは叶いそうにないことが分かりました。



どんどん歩きます。
「撮り鉄」には、たまらなく魅力的な場所の一つへ。
東海道線の鉄道線路をまたぐ陸橋の上からは、サンダーバードをはじめ様々な電車を見ることができます。



第一トンネルの出口に到着。
このトンネルの先はもう琵琶湖岸。
ここからしばらくは疎水を離れてのウォークになります。



藤尾奥町にあるコンビニで昼食。
そして歩きを再開し、いよいよ本日のメインの一つである第二竪坑へ。
この第二竪坑は、民家の敷地に入らせていただいてしか見ることができません。
ゆえに見物人が急増しては困るので、具体的な場所はあえて伏せます。



第二竪坑をズーム。
深さ22.5メートル、上部直径2.6メートル、下部直径1.4メートルで、第一竪坑と比べるとかなり小ぶりです。
写真に写っている煉瓦製地上部の高さは4.5メートル。
難工事だった第一竪坑と異なり、極めて順調に工事が進みおよそ1ヶ月で竪坑は完成しました。
この第二竪坑の目的は、第一トンネル工事の際の通気と明かり取りでした。



第二竪坑をあとにして小関越えへ。
職場の運転手さんとの話に熱中し、峠を上りきるまでこの第一竪坑を見つけることができませんでした。
峠まで上がりしまいそこで初めて第一竪坑を見落としたことに気づきあわてて引き返し、第一竪坑に到着。



第一竪坑。
深さ43.8メートル、上部直径5.4メートル、下部直径2.7メートルと3.2メートルの楕円形。
写真に写っている煉瓦製地上部の高さは65メートル。
で、第一竪坑と比べるとかなり小ぶりです。
第二竪坑が一日平均で66センチメートル掘り進めたのに対し、ここ第一竪坑は一日平均でわずか17センチメートルしか掘り進めませんでした。
20メートルほど掘り進めたあたりで湧水(100リットル/分)が出て、おまけに排水ポンプが故障。
イギリスから届く排水ポンプの到着まで工事は中断してしまった。
結局第一竪坑は完成するが、完成までの間に転落事故で5名の方が亡くなられるなど難渋を極めた工事となりました。
この竪坑は、トンネルを蹴上側と大津側から掘り進めるだけでなく、途中で竪坑を掘り、その竪坑から更に蹴上側と大津側に向かって掘り進める工法を採用したために掘られました。
それは、当時としては日本最長のトンネルを掘る工事だったからです。
完成が疑問視されるほどの難工事を無事に完成させるためと、工期短縮のための工法でしたし、もちろん日本初の竪坑方式を採用したトンネル掘削でした。
この第一竪坑は、少し前まで低いフェンスしか設置されておらず結構自由に見ることができました。
でも残念ながら、小関越えの道から第一竪坑へのアプローチは、高さ2メートルを超えるようなフェンスで閉ざされていました。
ごく最近、新たに高い柵が設置されたようです。



第一竪坑の見学を終え、小関越えの峠に到着。
峠から下らず、山道を分け入って汗をかきかき関電の鉄塔下へ。
琵琶湖疏水測量標石を発見。
この琵琶湖疏水測量標石は場所が分かりにくく、何度来ても探さなくてはなりません。
石の正式な名前は「几号水準点」といい、第一疏水を造る際にまず高低測量をするために造った目印の石で、いわば「琵琶湖疏水建設の原点」。
この測量標石の真下を琵琶湖第一疏水が流れています。



小関越えを下り終わり、小関越えの道標を左に曲がって長等神社前へ。
この楼門は大津市指定文化財です。



第一トンネルの上流側入口。
再び疎水を見ることができました。
隧道入口に扉が見えています。
扉は、疎水建設に際し水の氾濫を恐れた下流側の人たちの思いを受けて開閉式鉄製門扉が設置されたもの。
琵琶湖が大きく増水した際、疎水を通って下流の京都側に水が流れ込むことがないようにするためのものです。
そうそう。
疎水の氾濫ですが、実は一度だけその事実があります。
1930年(昭和5年)1月に天智天皇山科陵西側で第一疏水堤防が決壊し、山科地区が冠水。
対応のための動員では、近くの京都薬科大学の学生も駆り出されたとのことです。



大津閘門の施設。
閘門の扉の開閉は手動式でしたが、それでも当時としては閘門を開閉させる技術は世界最新の画期的なものでした。



疎水沿いを歩き琵琶湖方向へ。
使っていたノルディックウォークのポールを格納することに。



琵琶湖畔に到着。



第二疏水と第一疏水の間の琵琶湖岸・三保ケ崎には小さな緑地があり、緑地にはこの「われは湖の子」の石碑が。
ここ三保ケ崎には今の京大(当時の三高)ボート部の本拠地があり、石碑の「われは湖の子」は旧制三校寮歌「三高琵琶湖周航の歌」です。
縦2.2m、横3.5mの石に白文字で「われは 湖の子」と刻まれているのを目にすると、当時のボート部学生の姿が目に浮かんでくるようです。



石碑の横には歌碑が。
ネット上ではこの歌碑を「現状非公開」とも書かれたりしていますが、出入り自由な小さな公園(緑地)内にあり見学することができます。
歌碑には、旧制三校寮歌「三高琵琶湖周航の歌」全てが刻まれています。




道路を横断し、再び疎水前へ。
琵琶湖第二疎水の取水口を眺めます。
琵琶湖第二疎水はほぼ全線が暗渠化されており、水路が私たちの目に触れることはありません。



琵琶湖第一疎水の取水口。



続いて、旧東海道線の逢坂山トンネルへ向かいます。
京阪電車大津線の800系電車が通過。
通常軌道を走る電車ですが、浜大津では路面電車として走ります。
軌道法では、「車体長が30m以上である場合は併用軌道(路面)は走行できない」となっていますが、800系は1両16メートルの車両を4両固定連結で全長何と64メートルもあります。
しかし、大津市から特例を受け運行可能となっています。
併用軌道区間(路面)での自動車との接触を
前提に軽量化よりも車体修復が容易さを重視し、普通鋼製車体となっています。
また車体の一部に自動車用部品が使われるなど、800系はユニークな車両。



レトロチックな建物の古本屋さん。



昭和初期の香りが濃厚に漂う民家。



旧逢坂山トンネルの延長にある、京阪電車京津線の国道161号線の上関寺踏切。
その至近に、こうして煉瓦製の橋台が残っています。
これは旧東海道線が国道を跨いでいた跨道橋跡なのです。



「旧逢坂山ずい道東口」の案内。
車に乗ってこの前を通過しても、ほぼ100%誰もこの案内には気づかないはず。



旧逢坂山ずい道東口の説明。



旧逢坂山トンネル東口の下り線トンネル内部。
日本が近代化を始めた極めて初期の時代に思いを馳せます。
扉の向こう側は、今では京大防災研究所の地震観測所として使われています。



下り線トンネル上部の扁額。
刻まれた碑文は三條実美の揮毫による「楽成頼功」です。
「落成」ではなく「楽成」となっているのは、落盤に通じる「落」の文字を避けたからだとされています。



トンネル前に大きな猛禽類がいたした。
私たちの姿を見て飛んで逃げようとするのですが、怪我をしているようで全く飛べません。
疲れて外敵にやられてはいけないので、なるべく鳥に近寄らないようにしながらトンネル観察を続けます。



旧逢坂山トンネルの上り線トンネル。
こちらも小さな扉が付いていますが、使われている気配は感じられません。
この旧逢坂山トンネルは路線廃止後も人々の行き来に利用されてきましたし、敗戦後には家を失った人々の仮住まいとして使われていました。
このトンネルは、人々の暮らしの移り変わりを鉄道廃止後もずっとずっと見続けてきたのです。
今までも、そしておそらくはこれからも・・・・。



旧逢坂山トンネル東口全景。



旧逢坂山トンネル東口を後にして再び上関寺踏切へ。
この辺りの旧東海道線の線路跡は国道1号線に転用されましたが、その国道1号線の下には、「ねじりまんぽ」がはっきりと分かるこんなトンネルが今も残っています。
線路の下をくぐる人馬の行き来用のトンネルだったんでしょうね。



大津市中心部に今もこうしてレトロチックな建物が残っている・・・。
本当に素晴らしいことだと思います。



旧東海道。
私は旧東海道ウォークを行っていますが、交通費の負担に耐えられず三重県でストップ中。
こんな風景を眺めると「旧東海道ウォークを再開したい。」との思いが募ります。



帰路も蹴上か山科まで歩く予定でしたが、時間の関係で断念。
上栄町から京阪電車大津線に乗り、山科駅に到着。
地下通路の天井にはこんなものがあるのです。
日本で3番目に開通した鉄道線である旧東海道線の山科駅は明治12年に営業運転が開始されましたが、その時の山科駅は今の場所ではなく今の地下鉄小野駅近くにありました。
現在の山科駅は、1921年(大正10年)に新路線の開通に伴い移転し営業を開始したのです。
改札を通ってプラットホームに行く、新山科駅の当時の通路がここだったのです。
新山科駅は、当初2線だった線が戦時中に3線になり、更に1956年の電化や1970年更に1線増えて4線になるなど線路や駅舎が繰り返し改築され、開業当初の面影は今はもう見られなくなりました。
でも当時のプラットホームに行く通路跡が、「新駅開業当初の私の姿を忘れないで・・・」とでも主張するかのように今でもこうしてひっそりと残っているのです。
でも1921年に使われ始めた駅舎の名残が今もここに残ることを、山科の人でも知る人は少ないようなのが残念至極。





琵琶湖疏水、山科、そして琵琶湖。
いずれも素晴らしいと、何度訪れても強く感じます。


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